学者先生たちが「とんでもございません」は間違いだと主張する
理由はこうだ。
「とんでもない」を「とんでも」と「ない」に分けたとすると、
「とんでも」の部分の成り立ちを文法的に説明することができない。
したがって「とんでもない」は、これ以上分解できない、1語の
形容詞と考えるべきである。そうなると、「ない」は言葉の一部と
いうことになるから、前回例に挙げた「あどけない」などと同じく、
この部分だけを「ありません」「ございません」に置き換えることは
できない……と。
たしかに、とんでもないのとんでもは飛んでもでも豚でもでもない。
庭には二羽ニワトリがいるかどうかはさておき、「とんでもない」が
分解できない1語であるという主張は、まことにもっともだ。
しかし一方「とんでもない」は、これも前回形容詞の「ない」の
例として挙げた「言うまでもない」と、後半は同じ形をしている。
だから、「とんでも」の「も」を、「言うまでも」の「も」と同じ
助詞であると感じ、それに続く「ない」を独立した形容詞として
扱ってしまう言語感覚もまた、たいへん自然である。
いや、自然というだけではない。
「とんでもない」の語源は「とでもない」、もしくは
「とてもない」で、それが音韻変化したのだといわれる。これらの
言葉がなぜ「とんでもない」の意味になるのかの分析は、8年後
あたりのこのブログに譲るとして、ポイントは、いずれの場合も
「も」は本来助詞であり、それに続く「ない」は当然形容詞で
あったという点だ。つまり、もともとにさかのぼれば、私たちの
感覚こそがもっともだということになる。
「とんでもない」は1語であるという学者たちの理屈ももっとも、
「ない」の部分を分けられると考える私たち素人の感覚ももっとも。
現在もっともともともともっとものぶつかりあい……。
スモモも桃も桃のうちかどうかはさておき、どちらに軍配を
上げるのが望ましいかについては次回以降に。
2013年04月23日
2013年04月22日
とんでもございません・その1
まず最初におたずねしたい。
「とんでもございません」という言葉づかいを聞いて、あなたは
違和感を感じますか?
「この表現は正しいと思いますか」と尋ねたなら、間違っていると
答える人は、そこそこいるに違いない。何年か前の日本語ブーム、
「間違った日本語」狩りの嵐の中で、「とんでもございません」も
エジキとなったから、各局がこぞってつくったそのテの番組で、
バッシングを目にした、耳にした人は多いはずだ。何を隠そう、
今回これを書く気になったのも、つい最近TBS系「ひるおび」が、
「また」なのか「まだ」なのか、この言葉をクイズ形式で取り上げて
いたからである。
でも、違和感を感じるか否かという質問に対しては、これが間違った
表現だと主張する学者先生たちでさえ、建前はともかく本音では、
感じていないと答えるのではなかろうか。うっかり使ってしまって
いる先生も、一人二人どころか、千人二千人ではないかもしれない。
まずは、「とんでもございません」がなぜ間違いだといわれるのか、
ちょっとおさらいしておく。
あ、この先長くなって、毎度のことながら1回では終わらないが、
あしからずご覚悟いただきたい。
そもそも、「ない」の部分が「ございません」に変わるメカニズムが少々
複雑だ。語尾の「ない」はときに形容詞、ときに助動詞、ときに
単語の一部なのだが、そのうち形容詞の場合のみ、敬意を含む
「ありません」「ございません」に変化しうる。
助動詞の場合というのはたとえば「歩けない」、単語の一部の場合と
いうのはたとえば「あどけない」だが、これらは「歩けありません」
「あどけございません」になることは決してない。
一方、形容詞の場合、たとえば「面白くない」「言うまでもない」は、
「面白くありません」「言うまでもございません」と言い換える
ことができる。
これは、形容詞の「ない」の反対語が「ある」だからだ(形容詞の
反対語がなぜ動詞なのかは、5年後くらいにこのブログで書くかも)。
つまり、「ある」を助動詞を使って否定した「あらぬ」イコール
「ない」ということになる。
この「あらぬ」に丁寧語の「ます」をはさめば「ありませぬ」、
さらに「ある」を謙譲語の「ござる」に変えれば「ござりませぬ」、
これらが発音しやすいように変化して、「ありません」「ございません」
になったというわけだ。
したがって、形容詞の「ない」は、言葉づかいを丁寧にしたい、
敬意をこめたいというときにはいつでも、「ありません」や
「ございません」に置き換えることができるのである。
さて、これをふまえて「とんでもございません」について考えるのは
次回、いや次回以降……。
「とんでもございません」という言葉づかいを聞いて、あなたは
違和感を感じますか?
「この表現は正しいと思いますか」と尋ねたなら、間違っていると
答える人は、そこそこいるに違いない。何年か前の日本語ブーム、
「間違った日本語」狩りの嵐の中で、「とんでもございません」も
エジキとなったから、各局がこぞってつくったそのテの番組で、
バッシングを目にした、耳にした人は多いはずだ。何を隠そう、
今回これを書く気になったのも、つい最近TBS系「ひるおび」が、
「また」なのか「まだ」なのか、この言葉をクイズ形式で取り上げて
いたからである。
でも、違和感を感じるか否かという質問に対しては、これが間違った
表現だと主張する学者先生たちでさえ、建前はともかく本音では、
感じていないと答えるのではなかろうか。うっかり使ってしまって
いる先生も、一人二人どころか、千人二千人ではないかもしれない。
まずは、「とんでもございません」がなぜ間違いだといわれるのか、
ちょっとおさらいしておく。
あ、この先長くなって、毎度のことながら1回では終わらないが、
あしからずご覚悟いただきたい。
そもそも、「ない」の部分が「ございません」に変わるメカニズムが少々
複雑だ。語尾の「ない」はときに形容詞、ときに助動詞、ときに
単語の一部なのだが、そのうち形容詞の場合のみ、敬意を含む
「ありません」「ございません」に変化しうる。
助動詞の場合というのはたとえば「歩けない」、単語の一部の場合と
いうのはたとえば「あどけない」だが、これらは「歩けありません」
「あどけございません」になることは決してない。
一方、形容詞の場合、たとえば「面白くない」「言うまでもない」は、
「面白くありません」「言うまでもございません」と言い換える
ことができる。
これは、形容詞の「ない」の反対語が「ある」だからだ(形容詞の
反対語がなぜ動詞なのかは、5年後くらいにこのブログで書くかも)。
つまり、「ある」を助動詞を使って否定した「あらぬ」イコール
「ない」ということになる。
この「あらぬ」に丁寧語の「ます」をはさめば「ありませぬ」、
さらに「ある」を謙譲語の「ござる」に変えれば「ござりませぬ」、
これらが発音しやすいように変化して、「ありません」「ございません」
になったというわけだ。
したがって、形容詞の「ない」は、言葉づかいを丁寧にしたい、
敬意をこめたいというときにはいつでも、「ありません」や
「ございません」に置き換えることができるのである。
さて、これをふまえて「とんでもございません」について考えるのは
次回、いや次回以降……。
2013年04月10日
殴る蹴る
昨日の「鈍器」のついでに、もう一つ犯罪ニュース関連で
気に鳴る言葉を。
「殴る蹴るの暴行を加える」という表現があるが、これが最近、
「殴る、蹴るなどの暴行」と、「など」入りの原稿になっている
ことがおおいように思う。全部が全部そうなのか、局によって
違うのか、ちゃんと調査してはいないのだけれど。
もちろんこれは、暴行の内容が「殴る」と蹴る」だけだったとは
かぎらない、引きずったり髪の毛を引っ張ったりもあっただろう、
ということで、正確を期した表現なのだと考えられる。でも僕は、
この言い方に少々違和感を覚えるのだ。
「殴る蹴るの暴行」とは、暴行の激しさを表すそれこそ
決まり文句であり、実際に殴ったのか、蹴りは入れたのか
入れなかったのか、ほかのこともしたのかというあたりは
関係ない、と僕は考えている。つまり、「ボコボコにする」
「ボコる」というのと同じ意味なのだと。
一方「など」が入ると、それは事実を正しく伝えるための表現と
いうことになる。したがって、加えられた暴行の中に、「殴る」と
「蹴る」は間違いなく含まれていて、それ以外の行為もあった
わけである。
日本語の「など」はあいまいさを許してくれる便利な言葉なので、
殴る・蹴る以外に何かあったかどうかはあまり問われないとして、
もし実際には殴るばかりで蹴っていなかったとしたら、この
ニュウースは誤りということになってしまう
それよりそもそも、である。
公園で少年たちがホームレスを襲い、あるいはタクシーの料金で
もめ、あるいは暴力団の対立で、暴行を加えたと聞けば、
ああ、殴ったり蹴ったりしたんだろうな、とわれわれは当然の
ように考える。そこに「殴る、蹴るなどの」という言葉を
つけ加えても、なんら新しい情報を伝えたことにはならない。
これに対し、やや繰り返しになるが、「殴る蹴るの暴行」ならば、
暴行の激しさ、あるいは理不尽さのようなものが、なんとなく
伝わるように思う。
単に「暴行」というか、「激しい暴行」というか、あるいは
「殴る蹴るの暴行というか。「殴る蹴るなどの暴行」はない、
と思うのは僕だけか。
気に鳴る言葉を。
「殴る蹴るの暴行を加える」という表現があるが、これが最近、
「殴る、蹴るなどの暴行」と、「など」入りの原稿になっている
ことがおおいように思う。全部が全部そうなのか、局によって
違うのか、ちゃんと調査してはいないのだけれど。
もちろんこれは、暴行の内容が「殴る」と蹴る」だけだったとは
かぎらない、引きずったり髪の毛を引っ張ったりもあっただろう、
ということで、正確を期した表現なのだと考えられる。でも僕は、
この言い方に少々違和感を覚えるのだ。
「殴る蹴るの暴行」とは、暴行の激しさを表すそれこそ
決まり文句であり、実際に殴ったのか、蹴りは入れたのか
入れなかったのか、ほかのこともしたのかというあたりは
関係ない、と僕は考えている。つまり、「ボコボコにする」
「ボコる」というのと同じ意味なのだと。
一方「など」が入ると、それは事実を正しく伝えるための表現と
いうことになる。したがって、加えられた暴行の中に、「殴る」と
「蹴る」は間違いなく含まれていて、それ以外の行為もあった
わけである。
日本語の「など」はあいまいさを許してくれる便利な言葉なので、
殴る・蹴る以外に何かあったかどうかはあまり問われないとして、
もし実際には殴るばかりで蹴っていなかったとしたら、この
ニュウースは誤りということになってしまう
それよりそもそも、である。
公園で少年たちがホームレスを襲い、あるいはタクシーの料金で
もめ、あるいは暴力団の対立で、暴行を加えたと聞けば、
ああ、殴ったり蹴ったりしたんだろうな、とわれわれは当然の
ように考える。そこに「殴る、蹴るなどの」という言葉を
つけ加えても、なんら新しい情報を伝えたことにはならない。
これに対し、やや繰り返しになるが、「殴る蹴るの暴行」ならば、
暴行の激しさ、あるいは理不尽さのようなものが、なんとなく
伝わるように思う。
単に「暴行」というか、「激しい暴行」というか、あるいは
「殴る蹴るの暴行というか。「殴る蹴るなどの暴行」はない、
と思うのは僕だけか。