2011年06月11日

字余りのナゾ

すいすい句ろん――これも俳句だ3

★紫陽花へそそぐ少女の涙なぜ?   粋酔

 ややコッパズカシイ作品なので、先に説明してしまう。
 季語の「紫陽花(あじさい)」は、花の色がさまざまに変わる
ことから、「七変化(しちへんげ)」の異名を持つ。したがって
花言葉も、「移り気」「浮気」といったものが並ぶ。あらためて
調べてみたら、「元気な女性」「あなたは冷たい」なんて花言葉も
あるようなのだが、作句の時点ではそれは知らなかった。

 ちょうど今日のように、しとしとと降る雨の中に咲く紫陽花。
そこに、彼氏(だと思い込んでいるだけかも)の日ごと変わる
態度から、その心をはかりかねて、ふと涙を流す少女の、まだ
幼い恋を重ねてみた。フィクション、イメージの句であって、
僕が少女を泣かせたわけでは、断じてない……残念だけれど。

 この少女はだれか?――という問題は差し当たり棚に上げといて、
俳句のリズム論の続きである。前回は、なぜ「五・七・五」が
心地よいかを、音楽的観点から説明してみた(僕のオリジナルの
説ではない…念のため)。さて、ここからが難しいけれど、面白い。

 何を隠そう、僕が句会に出す作品の多くは、五・七・五には
なっていない。こう見えてひねくれ者(たぶんここで失笑)の
僕には、割り切れすぎるリズムはつまらないどころか、かえって
気持ち悪かったりもするのだ。今回を含めこれまでの3句が
いずれもぴったり五・七・五なのは、説明の都合上、わざと
少数派から選んだのである。

 今回はまず、「字余り」について考えてみる。上5・下五が六や
七になったり、中七が八になったりというのが字余りだ。
 反対の「字足らず」もあるわけだが、こちらはめったにお目に
かからない。わずか十七音を、わざわざさらに減らすか、という
話である。

 さて、「字余りには、字余りっぽい字余りと、字余りっぽくない
字余りがある。上掲の句で、実験してみよう。

 ためしに、中七を「そそいだ少女の」と八音にしてみる。
「紫陽花へそそいだ少女の涙なぜ?」
と続けて読んでも、違和感、字余り感はほとんどないはずだ。

 4拍子8ビートで考えると、中七は下五になめらかにつながる
部分で、休符は先頭につく場合も末尾につく場合もある(まれに
真ん中という場合も)。どこにあってもいい休符は、なくても
問題ない。8ビートがすべて音で埋まって、リズム感はまったく
損なわれないのである。

 次に下五を「涙はなぜ?」と六音にしてみる。やはり続けて
読んでみると、こちらは字余り感満載なのではないだろうか。

最後の音「ぜ」が、超強い3拍めの「タ」のところにあったのに、
それが次の弱い「カ」のところに移ってしまった。そのため、
デザートまで食べて食事をしめくくったつもりが、ヒジキの煮物
あたりの小鉢を食べ残し手いたことに気づいたときのような、
なんともふんぎりの悪い感じがするのである。

 七が八になっても字余りっぽくないが、五が六になるとすごく
字余りっぽい。この現象も、4拍子8ビート説の正しさを証明
しているわけだ。

 ところが、リズムの切れがいいことと、俳句の表現として優れて
いることとは、イコールではないのである。「難しいけれど面白い」
と言ったのはそこだ。

 この句の場合、下五を「涙はなぜ?」とあえて六音のハギレの
悪いリズムにすることで、終わらない感覚、いわゆる「余韻」が
生じる。それにより、「なぜ?」という未解決の疑問、あるいは、
少女自身の迷いや不安を、よりよく表現できるのではないか。

 一方で、字余りは字余り、「定型」から外れるルール違反である。
余韻が加わるプラスとリズムが崩れるマイナス、そしてルールを
侵すことのプラス・マイナス。そんなことをあれこれ考えた上で、
僕が出した結論は、「涙なぜ?」のほうだったというわけだ。

 もちろん政界は、皆さんのお考え
通り、もともとしょうもない句なんだから、どっちだって
いいじゃないか、なのだけれど。

2011年06月04日

五七五は8ビート

すいすい句ろんーーこれも俳句だ 2

★ 詰られて23時の生ビール  粋酔

 俳句といえば五・七・五、だれもが小学校で習うはずだ。
 上掲の句も、ひらがなで書いてみると、
「なじられて・にじゅうさんじの・なまびーる」
「じゅ」は2文字だが音としては一つなので、ぴったり
五・七・五の十七音になっている。

 ただこの五・七・五は、川柳もそうだし交通標語もそう、
気が付けば、日本中どこもかしこも誤・七・五だらけである。
なぜ日本人は、このリズムがそんなに好きなのか。

 国語学的にはまだいろいろ議論があるようだが、音楽的には
明快な答えが出ている。
 五・七・五は「4拍子8ビート」なのである。

 そもそも日本人は、「2拍子系」の民族らしい。そして、
「強・弱・強・弱……」とリズムをとる。これは、社内旅行の
宴会で、オヤジたちが上司の歌に、つい「打って・揉み手・
打って・揉み手」という手拍子をつけてしまうことからもわかる。

 したがって、4拍子の場合は、1拍めと3拍めが強い拍、
2拍めと4拍めが弱い拍となる。さらに8ビート、すなわち
1拍を8分音符2コに分けた場合も、前が強く後ろが弱くなる。

 8ビートの1小節を「タカタカタカタカ」と書いたとすると、
まず前の8分音符「タ」が強く、後ろの「カ」が弱い。そして、、
4拍子の1拍めと3拍めにあたる1つめと3つめの「タ」は、
超強い、ということになる。
 ちなみにジャズのリズムのとり方はマッタク逆で、「タ」より
「カ」のほうが強く、また4拍子の2拍めと4拍めが強い。
つまり、日本人のリズム感の対極にある音楽といえるわけだが、
そんなジャズを、なぜよりによって尺八などという楽器で?と
聞かれたら、ほっといてくれと答えるしかない。

 さて、われわれが俳句を超え二打して読むと、知らず知らず
この「4拍子8ビート」にはめ込んでしまう。五・七・五の
それぞれを1小節として、音が足りない分は休符で埋め、つまり
間をとって、8ビートを刻むのである。

 たとえば上刑の句なら、たいがいの人がこんなふうに読む
はずだ。(*は休符、|は小節の区切り)
 「なじられて***|*にじゅうさんじの|なまびーる***」
 (ここからは、五・七・五をそれぞれ「上五(かみご)」「中七
(なかしち)」「下五(しもご)」と呼ぶ業界用五を使わせていただく。)

 さて注目したいのは、上五・下五の最後の音「て」と「ル」が、
超強い3拍めアタマの「タ」のところにあたっていることだ。
8ビートの1小節の中で、最もハギレよく終われる場所である。
五音が好まれる理由は、そこにある。

 一方、中七は4拍をフルに使って次の下五につながる部分だ。
 ここでの休符の置き方は、句によって異なる。上掲句の
「にじゅう・さんじの」は3・4に分かれるので、頭に休符を
置くことでリズムが整う。これに対し、たとえば芭蕉の
「五月雨をあつめて早し最上川」なら、「あつめて・はやし」と
4・3に分かれるので、「早し」の後に休符を置くことになる。

 ここで、8ビートでなく4拍子で手をたたきながら、1回の
「パン」に2文字をあてはめて読むとどうなるか。
 上五・下五は「パンパンパン」と3回たたいて1拍休みが入る。
中七は4回たたいて、そのまま下五につながる。すなわち、
「パンパンパン*|パンパンパンパン|パンパンパン*」
となるわけだ。これはなんと、これまた日本人の大好きな
「三々七拍子」のうしろの部分にほかならないではないか。
だから、五・七・五は気持ちいいのである。

 俳句のリズム論はまだ半ばだが、残りは次回以降に譲ることに
して、自句開設でしめる。

 句の意味は、人からいわれなき批難を浴びせられて、
憂さ晴らしに夜中の11時からバーのカウンターでビールを飲み
始めた、という、どうということもないものだ。
 ただ、僕はこの句の「見た目」にポイントを置いた。

 俳句は基本タテ書きなので、「23」を半角文字で横に並べると、
1文字分のスペースに「にじゅうさん」の5音を担わせることが
できる。その結果、中七全体で3文字分、上五・下五より短く
なる。そのバランスが面白い、と僕は考えたのだ。

 ためしに「23」を漢字に変えて、
 「詰られて二十三時の生ビール」
としてみると、まったく印象が変わるのがわかるだろう。
「23」のほうが全体が軽くなり、「生ビール」という言葉との
相性もいい。

 そんなのは邪道だ、と繭をひそめる方もいるかもしれない。
しかし、詩を作るにあたり、表記にも様々な工夫をこらせるのは、
漢字にひらがな、カタカナ、さらにローマ字やアラビア数字など、
多様な文字を、文章の中でごく自然に使いこなせる、日本人の
特権だ。「見た目」の表現も、大いに冒険し、楽しんでいいのでは
ないかと、僕は思っている。

 もちろん、そのことと作品のデキは別問題だ。「見た目」も
ひっくるめてつまらん句だ、というご批判は、甘んじて受ける。

2011年05月30日

梅雨入りとメタボ

すいすい句ろん―ーこれも俳句だ 1

★腹の肉少し重たし梅雨に入る   粋酔

 日本人に生まれてよかった……と思うことを二つ挙げよ、
と言われたら、どこへ行っても和食・洋食・中華がもれなく
食べられることと、句会があること、と答えたい。
 どの町でも各国料理の店が当たり前に見つかるだけでなく、
たいていの家庭に和・洋・中の調味料が揃っていて、お母さん
たちがそれを難なく使いこなしているという、わが国の食文化の
豊かさについては、いまさらここで語るまでもあるまい。しかし
それに負けず劣らず、句会なんてものが、これまた当たり前に
そこら中で行なわれているというのも、日本のすごいところだ。

 だって句会というのは、自作の詩を持ち寄り、お互いの作品に
ついて論じ合う、きわめて水準の高い文化的営みなのですよ。
それを、夢破れた文学青年でもなく、自称詩人の異次元少女でも
ない、言い方は悪いけれど「ごく普通の」人たちが、軽々と
楽しんでいる。こんな国は、ほかにない。
 もちろんそれは、わずか17音の「俳句」という短い詩を、
先人が発明してくれたおかげなのだ。

 ただ、ご想像の通り、現在のところこの「句会」という素敵な
空間は、高齢者に独占されてしまっている。僕が参加している
「梅ヶ丘句会」も、なんとこの僕が最年少メンバーである。
 こんなことでいいのか、若者たちよ、と僕は叫びたい。
悔しくはないのか、もったいないとは思わないのか、と。

 「俳句」が決して、再び言い方は悪いが「年寄り向けの」
趣味ではないことは、高校生たちによる「俳句甲子園」の
盛り上がりを見てもわかる。でも、若いうちにその楽しみを知り、
それを趣味として続けて、ときには句会に参加しようなどという
人の数は、やはり圧倒的に少ないのだろう。

 まあ、僕のブログをそんなに若い人が読んでくれるとは
思わないけれど、少なくとも僕より年下で、これまで俳句と
川柳と交通標語の区別があまりつかなかった人がメにしてくれる
可能性はある。そのあたりから、「あれ、俳句とか区会とかって
面白いかも」という人をジワジワ増やしていけたら……そして
ゆくゆくは、梅ヶ丘句会最年少の座をだれかに譲る、というのが
僕の野望である。

 でも僕は、別に若い日とたちだけに訴えたいわけではない。
梅ヶ丘句会のメンバーは、戸籍上の年齢が僕より上というだけで、
精神的には、主宰の倦鳥先生をはじめ皆さんメチャクチャ若い。
知性と感性を同時に活性化させるに違いない「俳句」の
アンチエイジング効果については、今後の専門家の研究を
待たねばならないが、とりあえず僕のブログにダマされて、
若さを保つためにも俳句に鼻を突っ込んでみようか、という方が
いたら、それもまたとても嬉しい。

というわけで、申し訳ないがまたこのブログページに、新しい
カテゴリーを設けさせていただく。

 さて、今回は前置きみたいなものなので、具体的な作品に
ついての話は軽くすませることにする。自作句を材料にするのは
むろん、何を言っても文句の出るおそれがないからだ。

 冒頭の句は、僕が梅ヶ丘句会に入れていただいて間もない
08年6月の作品。「粋酔」は「すいすい」と読み、僕が勝手に
名乗っている俳号、俳句用ペンネームだ。

 別に最初に取り上げるのにふさわしい自信作というわけでは
なく、ちょうど梅雨入りしたところなのでこの句を選んだ。
季語はもちろん「梅雨に入る」(はいる、とは読まない)である。

 梅雨入りと腹の肉と、いったい何の関係があるのか。
 ない。でも、そこが俳句の面白いところだと、僕は思う。

 ふと気づくと、けっこう腹が出てきている。しかももうすぐ、
ビールがやたら美味い季節がやってくる。どうしよう。
 そんな、ものすごく憂鬱ではないが、ちょっと悩ましく、
あまり愉快でない気分が、梅雨入りの感じとなんとなく響き会う
のではないか。僕が考えたのは、その程度のことだ。

 でも、そういう「つかず離れず」の関係を発見してやることで、
「梅雨入り」という言葉の世界や、「腹の肉」という言葉の世界
(なんてものがあるとしてだが)が少し広がるかもしれない。
そしてそれは、僕のような素人ができる、文学への貢献(顕微鏡
的な規模ではあるけれど)なのではないかと思うのである。