2011年08月29日

変拍子・その3

変拍子・その3――すいすい句ろん 6

★愛を語るならツクツクボウシ流  粋酔

 ずいぶん間があいたので、お読みいただいてきた方にだけ
わかるあらすじから(わからない方は「すいすい句ろん」の
過去の記事を是非お読みください)。

 俳句に代表される「五・七・五」を、日本人が心地よいと
感じるのは、そのベースが「4拍子8ビート」だからである。
しかし、あえてそれを崩すことで、ニュアンスや表現としての
面白さが生まれる場合があると僕は考えている。その礼として、
まず「字余り」、続いて「変拍子」の名のもと「中間切れ」と
「句またがり」を、順に紹介してきたのだった。
 なお、用語として、五・七・五のそれぞれのまとまりを「上五
(かみご)」「中七(なかしち)」「下五(しもご)」と呼ぶことを
思い出していただき、本題に入る。

 さて上掲の拙句。オスの蝉にとって、鳴くことは求愛行動だが、
ツクツクボウシ(ちなみに秋の季語)の鳴き方は、突出して芸が
細かく、起承転結の展開がある。僕も女性に愛を語るなら、
アブラゼミやミンミンゼミのように「好きだよ」「アイシテル」の
一点張りではなく、ツクツクボウシ流にスマートかつドラマ
ティックにいきたい、という願望を詠んでみた。

 実は、これを句会に出した時点では、
「愛語るならばツクツクボウシ流」
という形(推敲前ということで以下「ビフォー」)だった。のちに
「を」を入れれて「ば」を削って冒頭の形(以下「アフター」)と
したのだが、その推敲の意味も含めて、句またがりについてもう
少し考えてみたい。

 ビフォーは、無理矢理五・七・五で切ると、
「あいかたる・ならばつくつく・ぼうしりゅう」
となる。中七から下五は明らかに句またがりだ。ただ、前回
触れたように、ここはもともと読むにあたって「休符」、つまり
間が不要だし、セミの名も「ツクツク-ボウシ(法師)」と
分かれるので、あまり違和感・変拍子感はないだろう。

 問題は上五〜中七のほうだ。これまで音数のまとまりについて
述べるとき、とくに断りなく「言葉(文節)の切れめ」という
微妙な書き方をしてきた。ここで観念して、その意味を説明して
おこう。

 「文節」というのは、中学の国語の授業で、「ね」を挟んで
区切れる言葉のまとまりと説明された記憶があるかもしれない。
たとえば「この紋ドコロが目に入らぬか」だったら、「このネ、
紋ドコロがネ、目にネ、入らぬか」と4つの文節に分かれる。「が」
「に」「ぬ」「か」もそれぞれ一つの単語なのだが、これらは前の
言葉に意味をつけ加えたり、その言葉の役割を示したりする
助詞や助動詞たち。携帯に対するストラップ、掃除機に対する
スーパーはぼき同様、主役と離れては働きようがない連中である。
だから、前の言葉と合わせて「一文節」となるのだ。そして、
句またがりは、単語でなく文節を基準に考えなければならない。

 ビフォーの「語るならば」の部分は、単語に分けると「語る・
なら・ば」と3語になるが、「なら」は助動詞、「ば」は助詞
なので、切り離せない1文節だ。つまり、「愛語る」の語文字で
切れることはなく、しっかり中七にまたがっているのである。

 「4拍子8ビート」説では、上五と中七の間には休符3つ分の
間が置かれるはずだが、ここが「またがる」と、その休符が丸々
スッ飛ばされることになる。その結果、中七〜下五の句またがり
とは比べ物にならない、強烈な変拍子感が生み出される。

 この句の場合、ちょっとややこしいのは、本来は「助動詞+
助詞」だった「ならば」が、独立した接続詞としても使われる
ようになっていることだ。「ならば」を接続詞と考えれば、前の
「語る」とは完全に切り離せるから、「愛語る」は文句なく上五と
して独り立ちし、句またがりは解消する。

 ただその場合、句の意味合いは「愛を語るの? それならば
ツクツクボウシ流がいいよ」と、「上から目線」で教えている
ようなニュアンスになる(と僕は感じる)。それは僕の意図とは
まるで違ってしまうわけだ。それに、「愛語る」と助詞を省略した
言い方も、あらためて考えるとなんだか舌足らずだ。

 それでアフターとなった。こうすれば、「なら」の前で切られる
ことはほぼないだろう。言葉の響き、流れもよくなった。

 しかし一方で、アフターはもはや定型句とはいえないのでは
ないか、「自由律俳句」に分類すべきではないか、という問題が
頭をもたげる。
次回はそこに切り込み、「変拍子論」を締めくくろうと思う。

2011年07月20日

変拍子・その2

変拍子・その2――すいすい句ろん 5

★手花火の先M78星雲  粋酔

 前回は、「変拍子俳句」のパターンの一つとして、中間切れを
紹介した。例にあげた拙句は、中七の真ん中に切れ字「や」が
あるのでわかりやすかったが、切れ字がなくても、意味の上で
「中間」で切れ、それでリズム的にも変拍子となる場合はある。
 拙句から、季節にこだわらず二つ例をあげてみる。句の意味は
……皆さんの解釈におまかせする。

 「筍はこびない俺もこびるまい」
 これは、普通の文章なら「こびない」の後に「。」がつくから、
ここで切れることは明らかだ。読む場合は、ここに間をあけると
ともに、おそらく「筍は」と「こびない」の間は休符3つ分より
詰めて、変拍子的リズムになるだろう。

 「早紅葉の径少女の手のひんやりと」
 最初の部分は「さもみじのみち」と読んで、意味の上では当然
ここで切れる。この句は中七が八音の字余りになっているので、
「径」の後ろに間をおいた時点で8ビートは完全にくずれる。
さすがに俳句には、ラップみたいに3連音符を使って、文字数の
つじつまを合わせるワザはないからだ。
 やはり、上五と中七の間を少し積めぎみにしても、かなり
変拍子感は強くなるのではなかろうか。

 さて、ここまでに出した句は、変拍子のものも含め、五・七・
五の切れ目と言葉(文節)の切れ目は一致していた。たとえば
先ほどの2句は、
 「筍は、こびない。オレも、こびるまい」
 「早紅葉の、径。少女の手の、ひんやりと」
と、上五、中七の後ろに「、」を打つことができる。ただ、中七の
途中にもっと大きな切れである「。」がつくわけだが。

 これに対し、冒頭の句は、中七の後ろには絶対「、」が打てない。
 「てはなびのさきえむななじゅうはちせいうん」
 これを無理やり音数で五・七・五にはめこむと、
 「てはなびの・さきえむななじゅう・はちせいうん」
 つまり「、」を打つなら「7」と「8」の間ということになって
しまうからだ。

 こんなふうに、五・七・五の切れ目と言葉(文節)の切れ目が
一致しないことを、「句またがり」という。
 「4拍子8ビート」の3小節という例のワク組で考えると、
「中間切れ」は1小説が二つに分かれて変拍子になるのに対して、
「句またがり」は、二つの小説がつながってしまうことによって
生まれる変拍子ということになる。

 ただリズム的には、もともと中七は下五に切れ目なくつながる
部分だから、上掲句のように、後半二つの句またがりは、あまり
変拍子を感じさせない。むしろこの句では、「手花火の先」で
切れることのほうが、変拍子的かもしれない。

 最後に一応、句の意味を……。
 「M78星雲」は、ウルトラマンたちの故郷だ。子供のころ、
火をつけた花火を、フラッシュビームを放つベーターカプセル
(初代ウルトラマンの変身アイテム)に見立てて空に向け、
「シュワッチ」とか叫んでいたなあという、懐かしい思い出で
ある。結果的に、花火のボオッとした光で、周囲の闇から切り
離された、自分たちだけの世界と、星空のかなたが直結している、
そんなイメージを表現できていたらいいなと願う次第である。

2011年07月10日

変拍子・その1

変拍子・その1――すいすい句ろん 4

★蜘蛛の囲に朝日や神はおはすらし   粋酔

 僕の知る限りでは、五音と七音の組み合わせは、すでに
『万葉集』のころに「唄」、つまり定型詩の主流となっていた。
それ以来、日本の歌人・詩人は「4拍子8ビート」にノって
想を練り、日本の読者はその「4拍子8ビート」のリズムの
快感に酔ってきたといっても、たぶんあんまり過言ではない。

 たいていは五と七が交互に並ぶけれど、中には七七七五の
都々逸なんて変わり種もある。七音のわかりやすい8ビートを、
3小節続けて聞かせておいて、最後は例の3拍めのアタマで
ハギレよく終わるというシカケだ。一方、短歌や長歌、
いわゆる「和歌」が、最後は「七七」で終わるのは、ハギレの
よい終わり方を嫌って、むしろ余韻を感じさせたい、という
ことではないかと推測する。

 伝統的な形式だけではない。近代詩の中でも、定型詩と
呼ばれるのは、結局五音・七音の組み合わせだ。立原道造などが
西洋の定型詩である「ソネット」の形式で作品を書いているが、
日本語の定型詩として認められたわけではない、と書きたいが、
ちょっとウィキった(注・「インターネット上の百科事典
『ウィキペディア』で調べた」の意)くらいで断言するのは
危険なのでやめておく。あとついでながら、演歌の歌詞は
現在でも七五調がけっこう多い。

 ちなみに、近代詩人に属する中原中也の定型詩、たとえば
「幾時代かが[七音]ありまして
  茶色い戦争[八音]ありました」(『サーカス』 [ ]は筆者)
のように、八音は当たり前に出てくる。「七五調」ではなく、
8ビートをこそ意識している証拠だ。

 さて、タイトルにした「変拍子」を、音楽的に細かく説明
しようとするとややこしくなるので、ここではざっくり、
日本の定型詩に出現する「4拍子8ビート」からはずれた
リズムをこう呼んでいる、と理解しておいていただきたい。

 日本の定型詩の中で、変拍子が最も多く使われるのは、
文句なくわれらが「俳句」だ。その理由を、僕は次のように
考えている。

 第一に、俳句は短い。リズムは、繰り返されることで強く
意識されるので、中原中也や島崎藤村の定型詩を読んでいると、
もうたまらなく「4拍子8ビート」な気分になる。ところが、
俳句はたった3小節、それも、8ビートっぽくない五音の
ほうが2小節だ。だから、読む人は「4拍子8ビート」を
それほど強くは意識しない。したがって、リズムがそこを
はずしたとしても、あまり違和感がないのだ。

 第二に、俳句は短い。たった十七音で何かを表現しなければ
ならないのだから、五・七・五の切れ目にこだわりすぎると、
内容のほうが犠牲になる恐れがある。言いたいことを言い
尽くすため、リズムに泣いてもらうしかない場合もあるわけだ。

 第三に、俳句は短い。その分たくさん作れてしまうので、
ワンパターンだとあきる。リズムを変えることも一つの表現
技法として、いろいろ試みてみたくもなるのだ。これは、
ヒネクレ物の僕にとっては、最も大きな理由だ。

 そんなわけで、今回からは、俳句における「変拍子」の
パターンをいくつか見ていきたい。まず取り上げるのは、
「中間切れ」である。例によって、上掲の拙句を題材とさせて
いただく。

 「蜘蛛の囲」は、漢字の見田目から明らかなように、網状の
蜘蛛の巣のことである。ひと晩にして出来上がった精緻な造形。
そのところどころに露の残る早朝、朝日を浴びた蜘蛛の囲は、
神々しいまでに美しい……なんてあたりを詠もうと思った。
もちろん、今の僕に見えるわけがない。昆虫好き、とくに蜘蛛
(分類上昆虫ではないが)は大好きだった、少年時代の記憶だ。

 この句は、言葉の切れ目(文法用語でいえば「文節」の
切れ目)を見るかぎり、一応五・七・五に分かれている。
しかし問題は、中七のド真ん中の「や」だ。何しろ転化の
「切れ字」だから、どうしたってここで切れないはずがない。
こういうのを「中間切れ」という。

 つまりこの句は、大きくまとめるなら「九・八」、細かく
分けても「五・四・三・五」。いずれにせよ、楽譜にして拍子
記号をつけようとすると、なかなか面倒なことになる。
少なくとも、「4拍子8ビート」ではない。

 では、この句を音読するとき、九音・八音に切手読むか。
たぶん、そうはならないだろう。ただ、上五のあとに休符3つ、
中七のあとに休符1つ……と、能天気な「4拍子8ビート」で
読むのも、やはり難しい。「や」の切れを意識して、なんとなく
変拍子を漢字ながら、少し違うリズムで読むに違いない。
それが面白い、と僕は思う。

 ためしにこの句を、内容は変えずに、無理やり正統派の
「五・七・五」にしてみる。たとえば、
 「神業か朝日あたれる蜘蛛の網」
 さあ、どちらがいいだろう。まあ、結局は好みかな。














蜘蛛の囲に朝日や神はおはすらし   粋酔

 僕の知る限りでは、五音と七音の組み合わせは、すでに
『万葉集』のころに「唄」、つまり定型詩の主流となっていた。
それ以来、日本の歌人・詩人は「4拍子8ビート」にノって
想を練り、日本の読者はその「4拍子8ビート」のリズムの
快感に酔ってきたといっても、たぶんあんまり過言ではない。

 たいていは五と七が交互に並ぶけれど、中には七七七五の
都々逸なんて変わり種もある。七音のわかりやすい8ビートを、
3小節続けて聞かせておいて、最後は例の3拍めのアタマで
ハギレよく終わるというシカケだ。一方、短歌や長歌、
いわゆる「和歌」が、最後は「七七」で終わるのは、ハギレの
よい終わり方を嫌って、むしろ余韻を感じさせたい、という
ことではないかと推測する。

 伝統的な形式だけではない。近代詩の中でも、定型詩と
呼ばれるのは結局五音・七音の組み合わせだ。立原道造などが
西洋の定型詩である「ソネット」の形式で作品を書いているが、
日本語の定型詩として認められたわけではない、と書きたいが、
ちょっとウィキった(注・「インターネット上の百科事典
『ウィキペディア』で調べた」の意)くらいで断言するのは
危険なのでやめておく。あとついでながら、演歌の歌詞は
現在でも七五調がけっこう多い。

 ちなみに、近代詩人に属する中原中也の定型詩、たとえば
「幾時代かが(七音)ありまして
  茶色い戦争(八音)ありました」(『サーカス』、( )内は筆者)
のように、八音は当たり前に出てくる。「七五調」ではなく、
8ビートをこそ意識している証拠だ。

 さて、タイトルにした「変拍子」を、音楽的に細かく説明
しようとするとややこしくなるので、ここではざっくり、
日本の定型詩に出現する「4拍子8ビート」からはずれた
リズムをこう呼んでいる、と理解しておいていただきたい。

 日本の定型詩の中で、変拍子が最も多く使われるのは、
文句なくわれらが「俳句」だ。その理由を、僕は次のように
考えている。

 第一に、俳句は短い。リズムは、繰り返されることで強く
意識されるので、中原中也や島崎藤村の定型詩を読んでいると、
もうたまらなく「4拍子8ビート」な気分になる。ところが、
俳句はたった3小節、それも、8ビートっぽくない五音の
ほうが2小節だ。だから、読む人は「4拍子8ビート」を
それほど強くは意識しない。したがって、リズムがそこを
はずしたとしても、あまり違和感がないのだ。

 第二に、俳句は短い。たった十七音で何かを表現しなければ
ならないのだから、五・七・五の切れ目にこだわりすぎると、
内容のほうが犠牲になる恐れがある。言いたいことを言い
尽くすため、リズムに泣いてもらうしかない場合もあるわけだ。

 第三に、俳句は短い。その分たくさん作れてしまうので、
ワンパターンだとあきる。リズムを変えることも一つの表現
技法として、いろいろ試みてみたくもなるのだ。これは、
ヒネクレ物の僕にとっては、最も大きな理由だ。

 そんなわけで、今回からは、俳句における「変拍子」の
パターンをいくつか見ていきたい。まず取り上げるのは、
「中間切れ」である。例によって、上掲の拙句を題材とさせて
いただく。

 「蜘蛛の囲」は、漢字の見田目から明らかなように、網状の
蜘蛛の巣のことである。ひと晩にして出来上がった精緻な造形。
そのところどころに露の残る早朝、朝日を浴びた蜘蛛の囲は、
神々しいまでに美しい……なんてあたりを詠もうと思った。
もちろん、今の僕に見えるわけがない。昆虫好き、とくに蜘蛛
(分類上昆虫ではないが)は大好きだった、少年時代の記憶だ。

 この句は、言葉の切れ目(文法用語でいえば「文節」の
切れ目)を見るかぎり、一応五・七・五に分かれている。
しかし問題は、中七のド真ん中の「や」だ。何しろ転化の
「切れ字」だから、どうしたってここで切れないはずがない。

 つまりこの句は、大きくまとめるなら「九・八」、細かく
分けても「五・四・三・五」。いずれにせよ、楽譜にして拍子
記号をつけようとすると、なかなか面倒なことになる。
少なくとも、「4拍子8ビート」ではない。

 では、この句を音読するとき、九音・八音に切手読むか。
たぶん、そうはならないだろう。ただ、上五のあとに休符3つ、
中七のあとに休符1つ……と、能天気な「4拍子8ビート」で
読むのも、やはり難しい。「や」の切れを意識して、なんとなく
変拍子を漢字ながら、少し違うリズムで読むに違いない。
それが面白い、と僕は思う。

 ためしにこの句を、内容を買えずに無理やり正統派五・七・五にしてみる。たとえば、
 「神業か朝日あたれる蜘蛛の網」
 さあ、どちらがいいだろう。まあ、結局は好みかな。