2011年09月26日

神経衰弱的ばば抜き・その3

神経衰弱的ババ抜き・その3――「見えない」ということ 28

前回で靴下の話は終わったものと、油断していた皆さん、実は、
まだ少し語り残していたのだ。

ババ抜きは、手札が全部なくなれば勝ち、ジョーカーが残って
しまったら負けである。ということは、靴下の一人ババ抜きで、
僕はたいがい負けている。なぜか必ずといっていいほど、
パートナーのいない靴下が残るからだ。

もちろん、どの靴下が残るのかは最後までわからない。その
意味では、「ババ抜き」ではなく、「ジジ抜き」のほうにたとえる
べきだった。ジョーカーを入れないで、そのかわりカードを1枚、
数字を見ずに取りのけておく、あれである。ただトランプなら、
どれが残るかわからないことが、スリル感アップのプラス効果を
もたらすのに対し、靴下の場合、アップするのはストレスばかり。
しかも、トランプではありえないことだが、相手のいないのが
2枚、3枚と残ったりもする。

ちなみにわが家では、汚れ物は押入れの中の大きな手提げ袋に
放り込む。脱いだらすぐにそこに入れる、という努力目標は、
20年にわたり努力目標のままだ。

だから、先ほどは「なぜか」と書いたけれど、これはそれほど
神秘的な話でもない。はぐれた相方は、たぶん部屋のどこかに、
脱がれたままの姿で、潜むつもりもなく潜んでいる。いずれは
僕の手か足が、それに行き当たるはずだと考えて、残った靴下は
決まった場所にストックすることにしている。

いくばくかの時が流れ、また「一人ジジ抜き」に挑むと、案の定、
孤独な靴下(たち)が残る。僕はおもむろにストックを取り出し、
両者を突き合わせる。めでたく合い方と再会し、手に手を
(靴下だから「足に足を」か?)とって表社会に復帰するものが
ある一方、落胆とともに新たにストックに加わるものもある
ことは言うまでもない。したがって、ストックがいつまでも
一掃されないのも、別に不思議ではない。

問題は、ストックが徐々に増えていくことだ。何カ月もの間
そこに腰を落ち着けている靴下の相方は、もはやうちの中には
存在しないと推測すべきだろう。それでもなかなか見切りを
つけて捨ててしまえないのが、見えない人間の悲しさだ。
あるはずのものを見つけるのにも時間がかかるが、ないかも
しれないものが本当にないと確信するのには、もっと時間が
かかるのである。

それに実際、とんでもないところでひょっこり見つかった例も
なくはない。たとえば、洗濯機の下だ。

前にも触れたが、ベランダに置いてあるうちの洗濯機は二槽式だ。
そして僕は、節水の意味もこめて、毎回ふた山同時に洗う。
そのため、二つの洗濯物の固まりを、洗濯槽と脱水槽の間で、
何度も行ったり来たりさせることになる。全自動洗濯機しか
知らず、この作業が想像しづらい人にも、その最中に靴下の
1枚が落ち、それに僕が気づかないことのほうは、容易に想像
できるに違いない。落ちた靴下は、排水のときに水にさらわれ、
洗濯機の下に潜り込んだのだろう。

カコ、そこで発見された靴下は2枚だ。いずれも、散々
浸された酸性雨の影響か、靴下フェチの微生物のしわざなのか、
ルーズソックスが絶滅した今となっては、とても外にははいて
いけない、情けない姿となっていた。ストックの中で待っていた
相方とは、再会の喜びもつかの間、そろって引退していただく
ほかなかったのだった。

そのほかにも、脱走靴下をかくまっていた実績のある場所は
いくつかあるが、それらは気をつけて時々チェックするように
している。それでも見つからない連中は、いよいよもってこの
家にはいない可能性が高い。では、彼らはどこへ行ったのか。

わが愛する梅ヶ丘に、男ものの靴下を、3階のベランダに
よじ登ってまで盗む変態は、いないものと信じたい。とすれば、
考えられるのは、乾燥に利用しているコインランドリーか、
そこまでの往復のどこかである。うっかり道端の自転車を
なぎ倒した拍子に落とした1枚が、ナゾの失踪事件を捜査する
警視庁を混乱に陥らせていなければいいのだが。
posted by しんどう at 15:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ

2011年09月22日

神経衰弱的ババ抜き・その2

神経衰弱的ババ抜き・その2――「見えない」ということ 27

毎度言い訳で始まりお恥ずかしいかぎりである。今回間があいて
しまったのは、もっぱら来月のライブについてあれやこれやと
手も心も配っていたからだ。HPの「Schedule」も更新されたし、
ブログでも順次ご案内する予定なので、ご興味のある方は
是非々々お出かけください。

さて、話のほうはというと、山と積まれた靴下を10日間も
ほったらかしておいたのだった。大丈夫、もう乾いているから、
10日経っても部屋干し臭の心配はない。

この山から2枚ずつ、正しいペアをつくって引き出しに納めて
いく……見えている人にとっては、面白くはないだろうけれど
簡単な「一人ババ抜き」だ。山を崩してササッと見渡して、
コレとコレ、と合わせていけばいい。だが見えないとなると、
頼れるのは、1枚ずつ確かめるしかない指先の感覚。そのため、
「神経衰弱」的要素が加わる。面白くないことに変わりはないが、
簡単でもなくなるわけだ。

この点では、3年前の僕(カコ僕)も現在の僕(イマ僕)も、
基本的には同じである。困ったことに、ワンポイントの刺繍でも
ないかぎり、手触りはけっこうあてにならない。はき古し、
洗濯の回数も重なると、違う生地とみせかけて同じだったり、
同じと思わせて違ったりする。長さも、1cmくらい短くても
引っ張ると同じになったり、それで同じだと思っていたら、
しばらくしてやっぱり元に戻っていることもある。

そしてカコ僕は、実はけっこう視覚にも頼っていた、いや、
頼らざるをえない事情があった。当時はまだ、そこそこ見えて
いたころに買ったものが、かなり生き残っていたのだ。

同じサイズで一足一足ガラが違うなんていうのは当たり前で、
生地もサイズも同じで、色が微妙に違う無地という厄介ものも
混じっていた。これを手触りで区別することは不可能だ。

それらについては、目覚まし時計のアラーム設定でも登場した
白熱電球の卓上スタンドに働いてもらうしかなかった。怪しい
2枚をズラして重ね、スタンドで至近距離から光をあてる。
境目がはっきりわかれば赤の他人、わからなければペアだ。
ただし、境目があるように見えるが、色の違いが微妙なときには、
光の加減による錯覚かもしれない。そこで、上下を入れ替えて
重ね直し、もう一度確認する。

この作業を、カコ僕は「うるし職人が仕上がりを確かめるように」
と表現している。誇大なたとえはカコもイマも一緒のようだ。
うるし職人さんへの失礼は詫びるとして、カコ僕にとっては、
大変な集中力を要する仕事であったことは待ちが射ない。悲しい
ことにその成果は、美しい汁椀ではなく、座敷系の居酒屋で靴を
脱いでも大丈夫というちっぽけな安心感にすぎない。

この「神経衰弱」より神経を衰弱させる「ババ抜き」から解放
されるためのアイデアを、カコ僕は3つ考えた。
@ 左右のつながったパンストもしくは網タイツを着用する。
A『メンズノンノ』に、左右別々の靴下をはくという新しい
ファッションを提案する。
B色も柄も同じ靴下だけを購入する。

3年前には「Aが最も現実的か」などと書いているが、これは
若気のいたりというもの。時の流れが選択したのは言うまでも
なくBで、カラフルなベテランたちが引退したあとを、真っ黒な
新人が補充していった。ただ、一度に買うのはまとめて980円の
3足どまり。買いためてもしまうスペースがないからだ。
したがって、黒の無地までは統一できても、生地や形までは
揃えられていない。

むろん、今のわが家のレパートリーなら、どの2枚をはいても
パッと見は大丈夫だ。だから、居酒屋で靴を脱ぐときの安心は
保証されている。でも、彼女の部屋で靴下まで脱ぐという奇跡的
事態を、まるで想定せずに生きていけるほど、イマ僕は人生に
背を向けてはいない。

だから僕は、現在でも神経衰弱的ババ抜きを続けている。
といっても、それほど神経はすりへらない。奇跡への対応は、
絶対確実なペアを一組つくっておけばよいのだから。
posted by しんどう at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ

2011年09月11日

神経衰弱的ババ抜き・その1

神経衰弱的ババ抜き・その1――「見えない」ということ 26

実は、このブログに近い内容の僕のエッセイ本が、出版寸前まで
いったことがある。なぜポシャッたかについては、モザイクと
ボイスチェンジャーなしで書くわけにいかない。ただ少なくとも、
「つまらない」ことが理由ではなかった……はずだ。なにしろ、
PCに残っている原稿をいま読み返してみても、われながら
面白いのである。もっとも、「われ」が面白いと思って書き上げた
ものを、「われ」が読んで面白いと思うのは当たり前で、
「われながら」ではなく「われだから」なのかもしれないが。

いずれにせよ、そんなに面白いと思うなら、それをそのまま
ブログとしてアップすればいいではないか、というのは理に
かなった提案である。さしあたりは毎日だって更新できて、
楽しみにしてくださるふた握りくらいのコアな読者の皆さんを、
お待たせすることもない。でもそれは、残念ながら不可能だ。

もちろん、まごうかたなく自分自身が書いた文章で、幸か不幸か
公けにもならなかったのだから、権利うんぬんは問題にならない。
実際、すでに部分的には、ボケやジョークを含めて、これまで
書いたブログの中にもどっさり流用している。でも「丸ごと」と
なると、話は別だ。

本として、妙に凝った企画を立ててしまい、原稿はそれに沿って
書かれている。そのため、小分けにすると不自然、あるいは
余計な寄り道があちこちにある、これが一つの問題。しかし、
もっと根本的な問題があるのだ。。

執筆にシャカリキになっていたのは、思えば2年前、思わないで
パソコンで確かめると3年前……案の定、僕の時間の記憶は
あてにならなかった。とにかく、その08年当時の僕(以下
「カコ僕」)と、現在の僕(以下「イマ僕」)とでは、ずいぶん
状況が変わっている。原稿には、そのまま現在進行形のブログに
上げると、ウソになってしまうことが多々含まれているのである。

当時つきあっていた花子を捨て、椿に乗り換えたことはもちろん
大きい(僕を「女の敵」と決め付ける前に本ブログの「椿ちゃん
その1〜3」を是非)。カコ僕があれもできない、これもできない、
とボヤいていたことの多くは、賢い椿のおかげで、いまでは
できるようになっているからだ。

しかしそれよりなにより、目の見え方そのものが、この
3年でもけっこう違ってきていることに、本人があらためて
気づかされる。周りの人からすれば、カコ僕もイマ僕も、
見えないことに変わりはない。それはちょうど、1置く円持って
いる人にとって、1万円も2万円も大して差がないのと同じだ。
でも、1万円しか持っていないイマ僕からすれば、2万円持っていたカコ僕は2倍の金持ち、つまりまだずいぶん見えていて、
目に頼る部分が多かった、という感じなのである。

たとえば、洗濯のあとの恒例行事、靴下の一人ババ抜き神経衰弱
風味である。大方のご推察どおり、うちの洗濯物はたまりがちだ。
乾かして、たためるものをたたんだあとには、だから靴下の山が
残る。これをカコ僕とイマ僕が、それぞれどのようにして消滅
させるかが、このブログの本題なのだけれど、例によって長く
なりすぎるので、この先は次回。
posted by しんどう at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ