2012年10月04日

レタス

レタス――「見えない」ということ 34

「あ、レタス!」と唐突に思い出したのは、JR新大久保駅から
僕の目と足で10数分、大久保通りと明治通りの交差点に
ほど近い地下のライブハウス「真昼の月 夜の太陽」、その
2番めの出演者の3曲めだった。目当てのアーティストの出番は
まだ先、思い出したところで身動きはとれず、いかんとも
しようがない。

レタスは朝の10時半ごろ、生協の宅配で届いたのだった。
芯を取り、水に浸けるところまでは、いつになく迅速に処理する。
ここ最近、忙しさに精神的落ち込みが加わり、つい外食に頼って、
食材をムダにすることが重なった。その反省をふまえてのことだ。

ここで何気なくメールをチェックしたところ、飛びきりの美女
(なぜわかる?というツッコミはもういらない)との3時の
お茶の約束が成立したことが判明。美女とのお茶はそれだけで
大事件ではあるけれど、このお茶はただのお茶ではない。
本当は2週間前だった彼女の誕生日を、遅まきながらここで
祝おうと、ひそかにたくらんでいたのである。

察しのいい皆さんは、2週間祝えていないという時点で、
なあんだ、まだ大した関係じゃないんだなと見すかすに違いない。
返す言葉はないが、肝心なのは「まだ」の2文字だ。

当然のことながら、僕の時間は完全に、3時へのカウントダウン・
モードに切り替わった。本来やるはずだった仕事を前倒しにした
うえに、シャワーや着替えの身だしなみ、プレゼントの花束の
準備などを加えて間に合わせなければならない。頭の中に
組み立てられた段取りに、「レタス」の項目はなかった。

「レタス」はなかったけれども、「サバの切り身」の項目はあった。
昨日のうちに、今日の昼食はこれと決め手、冷凍庫から冷蔵庫に
移して解凍しておいたもので、食材のムダ撲滅キャンペーン中の
折りしも、最初から「やるべきこと」の柱の一つだったからだ。
それに、切り身を焼きさえすれば、味噌汁は朝食の残りがあり、
ご飯は冷凍したものをチンするだけ、手間はかからない。

キッチンに立ったおかげで、レタスには自己主張のチャンスが
生まれた。水に浸けていたボウルが手に触れ、僕はあわてて
ザルにあげた。あとは、水が切れたら保存袋に入れて、冷蔵庫に
収めればいい。しかしこのとき、ジャマだからといったん
テーブルのほうに置いたのが失敗だった。レタスは再び、僕の
脳内視野から消えた。

さて、彼女とのお茶の時間が、どんなに楽しく、充実した
ものだったかなどという話は、この文章のテーマと無関係なので
省略する。一度うちに帰り、新たに処理が必要となった問題を
片付け、僕は予定通り、ライブを聴きに出かけた。その間、
レタスが視野に戻ることはなかった。

わが家から小田急線と山手線とコリアン・ストリートを隔てた
ライブハウスの2人めの3曲めに思い出した数秒後、僕は、
今度は無理やりレタスを視野から追い出した。ジタもバタも
できないし、急に涼しくなった今夜なら、たぶんひどいことには
なるまい、と。

結局帰宅したのは真夜中近かった。レタスの外側の葉の
ヘロヘオ具合が、まだ大丈夫よとささやいてくれて、僕はホッと
胸をなでおろしたのである。
そして味も……あ、レタス! 朝食のときに食べ忘れたのを、
いま思い出した。
posted by しんどう at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ

2012年10月02日

陽当たり

陽当たり――見えないということ (あれ、いくつめ?)

わが家は一気に暗くなったらしい。
もちろん、僕が失恋したからでも、持ち株が暴落したからでも
ない。南側の部屋に陽が当たらなくなったのである。

お隣の建て替え工事の騒音が、うちの節電計画の難敵になって
いるという話は、以前に書いた。その工事がずいぶん進み、
恐れていたとおり、建物はかつての2階建てを超えてすくすくと
成長している。うちの窓から伸ばした手が触れるのは、もはや
屋上の手すりではなく、無表情なカベなのだ。

たしかに、昼間の窓の明るさはかろううじてわかる僕の目に、
南側の窓はなにもアピールしなくなった。単にカベが近いと
いうだけでなく、その色も、あまり光を反射しないダーク系に
塗られているのだろう。

ただ、そのせいで部屋全体の明るさがどうなったかは、僕には
わからない。光の入る窓や、時折つくことがある照明を正面から
見ないかぎり、家の中の僕を取り巻いているのは相変わらず、
モヤモヤとうごめく一様な濃霧だからだ。
でも、たずねてきた緊急介護人(という名称と裏腹に毎回必ず
遅刻する緊急性ゼロ)の女性は、明るさの劇的な変化に驚いた。

幸いなことに、風はどうやら建物を回りこんで吹き込んでくれる
ようで、風通しのほうはそれほど悪くなっていない。文字通り、
「涼風の曲がりくねって来たりけり(一茶)」というわけである。

うちと同じフロアのもう一世帯は、おそらくお隣の工事計画を
知って、たまらず引っ越したものと思われる。でも、見えない
僕にとっては、この部屋の暮らし心地に大きなダメージはない。

ちょっと心配なのは、これから来る冬の寒さ、それと僕意外の
この部屋の住人たち――ダニ、カビといった連中にとって、
むしろ暮らし心地がよくなるかもしれないということだけだ。
posted by しんどう at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ

2012年03月10日

携帯電話・その3

携帯電話・その3――「見えない」ということ 32

前回までの超あらすじ・・・買い換えたばかりの携帯、ある日、
出かけようとしたところ……)

充電器のところはもちろん、ポンと放り出しそうなテーブルや
机の上にも、歩き回るあたりの床にも、携帯が見当たらない……
というか、手当たらない。固定電話からかけてみると、電源が
入っていないと冷たくあしらわれる。たたんだフトンの間、着た
服や着たかもしれない服のポケット、悲しい思い出のある便器の
中まで捜索範囲を広げたけれど、見つからなかった。

やむなくいったんは携帯を持たずに外出。帰宅後は、もはや
シャカリキになる必要はないので、ゆるゆると捜索を続けた。
どこかに書いたかもしれないが、目が見えないと、あるものを
見つけるのにも時間がかかるが、ないものをないと納得するには
その何倍もの時間がかかる。

実際、あとから思えばなぜ最初からそこを触らなかったのか、
なぜあと5センチ手を伸ばしてみなかったのかというような
場所で、時間がたってから見つかることも少なくない。一種の
心理的な「盲点」みたいなものだ。

その場所も、そんな盲点の一つになっていたのかもしれない。
その夜僕がそこに手を伸ばしたのは、決して携帯電話を探そうと
思ったわけではなかったのである。
ちょっと水の流れが悪いようだからと、ゴミを取り除くために
洗面台の底に向かわせた左手の指先が、想定外の四角い物体に
ぶつかった。

背筋を冷たいものが這い上がる。物体の正体については、一点の
疑問もなかった。
自分がミスターマリックでないことは比較的はっきりと承知して
いるので、それがたった今出現したという可能性はあっさりと
否定される。それどころか、今日1日、さらには昨日1日、僕は
携帯電話に触っていない。そして僕は自分がユリ・ゲラーでない
ことも、わりとよく承知している。。

となれば、前々日の夜の歯みがきの時しかない。ゆすいだ水を
吐き出そうと頭を下げた瞬間、胸のポケットからスルリと
すべり落ちたのだろう。ただちに拾い上げてタオルにでも
くるんでいれば、事なきを得たはずだ。だが僕はしなかった、
いやできなかった。

そのとき僕が酔っ払っていたことは、99.7%確実である。寝る
直前に僕が酔っ払っていない日は、念に1日あるかないか、
割合にして0.3%弱なのだから。
多少とも鈍った僕の感覚は、流水の音にまぎれた携帯の落下音を
認識できなかったのに違いない。

つまり僕は、丸2日にわたり、携帯電話の上で手を洗い、
携帯電話の上で歯をみがき、携帯電話の上で雑巾をしぼっていた
ことになる。鳴るのが商売なんだから、助けくらい呼べよと
文句を言ってもはじまらない。モノ言えぬ携帯電話の息の根を、
僕自身の手でジワジワと止めてしまった……事績の念が重く、
それはそれは重く僕にのしかかった。(続く)
posted by しんどう at 11:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 「見えない」ということ